最初に死んだとき、レイス・クロフォードは、自分が死んだことに気づかなかった。
痛みより先に、音が消えたからだ。
石畳を打つ雨。崩れた鐘楼の上で回り続ける、針のない大時計。遠くで誰かが叫ぶ声。剣と剣がぶつかる甲高い響き。全部が一瞬で遠ざかり、最後に残ったのは、胸の奥を内側から押しつぶすような圧迫感だけだった。
視界の端で、青白い結晶が砕けた。
その破片の向こうに、白銀の髪の少女がいた。
「伏せて!」
間に合わなかった。
黒い槍のようなものが腹を貫いた。
自分のものとは思えないほど大量の血が、濡れた石畳へ流れていく。少女が何かを叫びながら駆け寄ってくる。青い目が大きく見開かれた。白と紺の外套。金の縁取り。右手には細身の剣。
知らない人だった。
知らない街だった。
なのに、レイスは妙に冷静だった。
――やっぱり、ここ、現実じゃないのかもしれない。
数分前まで、彼は別の世界にいた。
学校帰りの駅前。雨。赤信号。誰かが落とした透明なビニール傘が、風に転がっていた。そこまでは覚えている。次に目を開けたら、この街の路地裏で泥水に頬をつけていた。
スマートフォンはない。制服もない。
代わりに黒い長衣と革のベルト、腰には見覚えのない剣。首元には、ひびの入った銀色の懐中時計が下がっていた。
状況を理解する前に、獣のような影に追われ、角を曲がり、白銀の髪の少女と出会い、そして今、死にかけている。
「聞こえる? ねえ、名前は?」
少女の手が、レイスの頬に触れた。
温かかった。
その温度だけが、ありえないほど鮮明だった。
「……レイス」
なぜか、その名前が口から出た。
本来の自分の名前ではない。
けれど、ここではそれが自分の名前なのだと、記憶のない部分だけが知っているような感覚があった。
「レイス。大丈夫、まだ――」
「無理だと思う」
少女が息を呑んだ。
「そういうこと言わないで」
「じゃあ……名前、教えて」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。
死ぬ前に知る必要などない。
少女は唇を噛み、それでも答えた。
「フィアナ。フィアナ・ルクス」
「フィアナ」
「うん」
「覚えた」
彼女の表情が歪んだ。
「覚えなくていい。生きて、もう一度聞いて」
その言葉が、やけに悔しかった。
もう一度。
あるなら、そうしたかった。
胸元の懐中時計が、ひどく熱くなった。
割れたガラスの奥で止まっていた秒針が、ひとつだけ逆に動いた。
カチ、と。
そこで世界が消えた。